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「彩絵硝子」(14)「牧師のやうな顔」の意味

 ここまで来たらあとは最終シーンを残すのみである。

 秋子、狷之助と則子は家を出た塀のところで落ち合う。禎之助には内緒である。則子を見た秋子は予感どおり"追憶モード"に突入する(笑)。

「ふと秋子の頭を現実のやうな姿をして思い出の翼が飛んだ。」(p.129)

 しかし空色の靴下留についての則子への質問を、狷之助に遮られる格好になってしまう。秋子は自分と則子との同一視――それは則子を介して狷之助に連絡すると同時に、自らと禎之助との過去の思い出に連絡するべきものだったが――を断念させられ、「やゝさびしさうな目付になつて、逃げてしまつた鳥を追ふときのやうに遠くの方をみつめた……。」(p.130)

 つまり、秋子の空想は現実に着地することができなかった。それと同時に、彼女も(禎之助と同様に)過去の「純粋な感情」から閉め出される格好となり、彼と同じ「死の予感」の領域へ入ったかのように解釈しうる。

 そして、偶然にも階下に下りてきた禎之助が、この会話を耳にする。「二つの音叉のやうに、彼には妻がそれを言つているときの気持がすつかりわかつた。」(p.130)という。

 若いカップルをいわば鏡像にして、2人は自分たち夫婦の若い時代をそれぞれに思い出していたのである。興味深いのが、2人は「懐かしいですね」とか「昔を思い出すなぁ」と言い合うのではない。モオメンタリズムの夫婦らしく、若いカップルを介してしか相手(配偶者)の心理に到達できなかった点である。

 さて、最後に残されたのは「彼(※禎之助)はうなづき、牧師のやうな顔をした。」(p.130)である。これをどう解釈しようか?

 牧師はたいていは老賢者であり、若い者を教導する立場である(そうではないのもいっぱいいるが…)。また、僧侶階級として世俗のエロスを超越していなければならない(やっぱり、そうでないものもいっぱいいるが…)。また、結婚を司る存在でもある。

 そのように考えると、禎之助が牧師のような顔をしたというのは、彼自身が現世から引退すること、それと同時に若いカップルを承認したこと、といった含意があるのだとワタクシは思う。

 以上で、この物語の解釈を終える。
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銘記せよ! 三島語録
(…)われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながらみてゐなければならなかつた。(…)
「檄」楯の会隊長 三島由紀夫
保阪正康『三島由紀夫と楯の会事件』(角川書店[文庫版]、2009年)p.19より引用
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