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鈴鹿鈔 墓参帰り:解釈(1)

 プロの文芸評論家の意見も聞きたいところだが、ワタクシにとってこの作品は「で、どうしたん?」と言いたくなるような、生焼けの尻切れトンボである。

 最後に登場する墓地の門番。彼が何かを言うとか、何か行動を起こすとか、そんなことがあれば「転」となって余韻もあっただろうに。この門番は父の世界つまり死の領域と、宗治たちの住む現世とを繋ぐメディエイター(仲介者)なのだから。彼が何かを起こせば物語は動いたかもしれないが、結局のところ小部家の3人がバラバラなままで物語が静かに終わってしまった。

 唯一の可能性を見るなら、タイトルの「墓参帰り」がある。これは直接には、宗治が学校に行っている間に吉子と時子が2人で墓参に行き、その帰宅後に喧嘩になった箇所(pp.39-43)を指しているのだろう。しかしながら、最後の場面となる"何も起こらなかった3人の墓参"の後にも、もちろん「墓参帰り」はある。それを想像してみろ、というのが作者の意図ならば、物語に半終止の膨らみは出てくるけれども…。

 しかしそうだとしても、3人がバラバラなまま帰宅して大喧嘩になったかもしれない、というのが関の山。やはり物語としては面白くない。「酸模」と「座禅物語」のほうがよかった。

 さて、最後の場面から語り始めた上、盛り下がる方向にスタートしてしまって恐縮だが、「父・母・子」のアングルからの解釈に進もう。

 今回のお話では、のっけから父が死んでいる!「もっとお父さんを大事にしろ」と一喝したくなる展開である(笑)。これで最初の3作とも父の死が描写されていることになる。

 しかも、この作品はモロに三島の成育環境をトレースしたように見えるから(伯母・時子=祖母・夏子、継母・吉子=母・倭文重、宗治=三島由紀夫こと平岡公威)、父・由明は三島の父・梓にあたる。この作品は猪瀬氏の『ペルソナ』では言及されていなかったと思うけれど、三島の成育史とあわせて論じられるべきものだと思う。
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銘記せよ! 三島語録
(…)われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながらみてゐなければならなかつた。(…)
「檄」楯の会隊長 三島由紀夫
保阪正康『三島由紀夫と楯の会事件』(角川書店[文庫版]、2009年)p.19より引用
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