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座禅物語:解釈(3)

 僧侶は、小さな村の絶対権力者として描かれる。そしてその姿は異形であることが強調され、魔のイメージさえ付加されている。

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 此の村の絶対的な権力は一人の赤顔(あからがほ)の坊主にあつた。三十人やそこらの村人はこの坊主に従順であり、而して絶対服従であつた。(p.31)

 彼[※僧侶]は見るからに高慢ちきな顔をしてゐて鼻は天狗のやうに尖りその先が鬱血して遠くから見ると、絵具をぬりつけてゐるやうであつた。耳は、悪魔のやうに大きくて、両側にひろがり、[以下略](p.32)
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 と、大層な言われようである(笑)。

 この部分で気になるところがある。それは僧侶が「不自然な生活」(p.31)をしているという箇所だ。僧侶は村人を使役しつつ、自分は悟りを開くために瞑想をし、聖者を探している。いいご身分であるが、これを「不自然」と指摘している。

 これは後の話になるが、この有閑階級的な立場が村人たちの全滅により崩壊し、自ら働かなければならなくなったことで気づかされる地平が「悟り」なのではないか? ちょっと安っぽい「悟り」になってしまうが、この作品の筋書きに即して解釈すると、そのように読める。

 さて、閉鎖された村に「一人の真黒な顔をした男」、すなわちトリックスターが闖入して物語は急展開していく。僧侶は洞窟内の老人(実は仏陀が化けたもの――相当おどろおどろしいイメージの老人なのだが!)に出会う。老人は、とある日に科木(しなのき)の根元に生える茸を食べれば悟れるという。
 
 しかし同時に老人は、僧侶が日ごろから村人に世話になっていることを指摘し、いつか謝礼をせよと僧侶を諭す。

 これと「不自然な生活」というところと考え合わせると、どうも絶対権力者(や支配する側の人間)が被支配者に感謝しなければならないというか、被支配者あっての支配者の立場があるのだ、というような作者の視点が感じられる。

 その支配者が祖父や父などの父系の親族を指すのか、学校の教師なのか、はたまた政治家・官僚、あるいは究極的に天皇なのか。そのあたりは分からない。しかし、十二歳十三歳の三島の頭に、すでに社会階級と不平等の問題が浮上していた、とは言えそうである。
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銘記せよ! 三島語録
(…)われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながらみてゐなければならなかつた。(…)
「檄」楯の会隊長 三島由紀夫
保阪正康『三島由紀夫と楯の会事件』(角川書店[文庫版]、2009年)p.19より引用
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